滋賀県の近江八幡を歩いていると、どこか懐かしく、それでいて洗練された洋館に出会うことがあります。それらを手がけたのは、アメリカからやってきて日本に帰化した建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズです。
「メンソレータム(現在のメンターム)」を日本に広めた実業家としても有名ですが、ふと気になるのが彼のプライベートな側面ではないでしょうか。
「これほどの偉業を成し遂げたヴォーリズに、直系の子孫はいるの?」
「日本人女性と結婚した後の家系図はどうなっているんだろう?」
そんな疑問を持つ方のために、ヴォーリズの家族愛と、彼が遺した「血縁を超えた絆」について詳しく紐解いていきます。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズに直系の子孫はいない?
結論からお伝えすると、ウィリアム・メレル・ヴォーリズと妻・一柳満喜子の間に子供はいませんでした。したがって、ヴォーリズの血を直接引く実の子や孫、いわゆる「直系の子孫」は存在しません。
1919年(大正8年)、ヴォーリズが39歳の時に二人は結婚しました。当時としては比較的遅い結婚であり、また二人は伝道活動や教育事業、建築設計といった多忙を極める公的な活動に生涯を捧げたことも、子供を持たなかった背景にあるのかもしれません。
しかし、子孫がいないからといって、彼の家系や志が途絶えてしまったわけではありません。彼が日本に帰化し「一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)」という名を得た背景には、深く温かい家族の物語が隠されています。
妻・一柳満喜子との出会いと「華族」との家系図
ヴォーリズの人生を語る上で欠かせないのが、最愛の妻・満喜子の存在です。彼女の家系図を辿ると、当時の日本社会における驚くべき繋がりが見えてきます。
播磨小野藩の令嬢との結婚
満喜子は、旧播磨小野藩(現在の兵庫県小野市)の藩主であった一柳末徳子爵の三女でした。つまり、江戸時代であれば「お姫様」と呼ばれる身分、明治・大正期においては「華族」という特権階級の女性だったのです。
当時の日本において、華族の娘が外国人と結婚することは極めて異例でした。周囲の反対もありましたが、彼女はアメリカ留学を経験したクリスチャンであり、ヴォーリズの掲げる「神の国を日本に築く」という理想に深く共鳴していたのです。
広岡浅子が結んだ不思議な縁
この二人の縁を結んだのは、NHK連続テレビ小説『あさが来た』のモデルにもなった大実業家・広岡浅子だと言われています。
実は、満喜子の兄である一柳恵三は、広岡浅子のひとり娘・亀子の婿養子として広岡家に入っていました。この親類関係を通じて、ヴォーリズと満喜子は出会うことになります。広岡浅子自身もヴォーリズから洗礼を受けており、彼を精神的な指導者として深く信頼していました。
血縁としての直系子孫はいませんが、このように当時の日本を動かしていた重要人物たちが、ヴォーリズの「家族」のようなネットワークを形成していたのです。
「一柳米来留」という名に込められた覚悟
1941年、太平洋戦争が始まる直前にヴォーリズは日本への帰化を選びました。アメリカと日本が敵対する中で、彼は「愛する妻の国」に留まることを決意したのです。
この時に名乗ったのが、妻の姓を継いだ「一柳米来留」です。
「米国から来(き)て、日本に留(とど)まる」
この漢字の当て字には、彼の人生そのものが凝縮されています。彼は単なる建築家や宣教師としてではなく、一人の日本人として、この国の土になる覚悟を決めました。
子孫を残すこと以上に、彼は「日本人として生き、日本に尽くす」という生き様を、周囲の人々や後世の私たちに示してくれたと言えるでしょう。
血縁を超えて受け継がれる「近江兄弟社」の精神
ヴォーリズが遺した最大の「遺産」の一つが、近江兄弟社です。
この組織は、キリスト教の伝道活動を支えるための経済的基盤として設立されましたが、そこには「働く仲間はすべて家族である」というヴォーリズの信念が貫かれていました。
メンソレータムからメンタームへ
彼が日本に紹介した家庭常備薬は、またたく間に全国へ広がりました。しかし、ヴォーリズの死後、会社は経営危機に陥り、一度は倒産を経験します。
普通ならそこで歴史は終わるはずですが、ヴォーリズを慕う社員たちが立ち上がりました。「ヴォーリズ先生の精神と、この素晴らしい薬を絶やしてはいけない」という強い想いが、新しいブランドであるメンタームを生み出し、会社を再興させたのです。
彼ら社員たちこそが、血の繋がりはないものの、ヴォーリズの魂を受け継いだ「精神的な子孫」であることは間違いありません。
ヴォーリズ建築という「無言の子孫」たち
現在も日本各地に残る1,600件以上ものヴォーリズ建築。これらもまた、彼がこの世に送り出した「子供たち」のような存在です。
使う人を主役にする設計
ヴォーリズ建築には、共通した特徴があります。それは「豪華さ」よりも「住み心地」や「健康」を第一に考えている点です。
- 部屋の隅々まで光が届く大きな窓
- 風通しを良くする工夫
- 家族が集まりやすいリビングの配置
彼が設計した住宅や学校(関西学院大学や同志社大学など)を訪れると、どこか包み込まれるような優しさを感じます。彼は建築を通じて、そこに住む人、学ぶ人がいかに幸せになれるかを問い続けました。
建築 ヴォーリズ関連の書籍をめくれば分かるとおり、その設計思想は現代の住宅メーカーにも多大な影響を与えています。建物自体が、彼の思想を次世代へ語り継ぐメディアとなっているのです。
教育の場に息づく「ヴォーリズの子供たち」
ヴォーリズと満喜子夫人は、教育事業にも情熱を注ぎました。近江八幡にある「近江兄弟社学園」の前身となる幼稚園を設立した際、満喜子夫人は子供たちを我が子のように愛し、教育にあたりました。
この学園で学んだ卒業生たちは、現在も「世界のどこにいても、隣人を愛する」というヴォーリズの教えを胸に社会で活躍しています。
「私には子供がいないが、この学園の生徒たちこそが私の誇りである」
もしヴォーリズが存命であれば、そう微笑んでいたかもしれません。直接の家系図には載らなくても、数万人の卒業生という形で、彼のDNAは確実に未来へと繋がっています。
滋賀・近江八幡に眠る夫婦の絆
ヴォーリズが晩年を過ごし、今も眠っている場所が滋賀県近江八幡市の「恒春園」です。ここには、彼と満喜子夫人の墓碑が並んで建てられています。
二人は、激動の時代を二人三脚で走り抜けました。人種の違い、身分の違い、そして戦争という大きな壁。それらすべてを乗り越えられたのは、お互いへの深い愛と、共通の信仰があったからに他なりません。
近江八幡の街を歩くと、ヴォーリズの名がついた施設や通りが多く見つかります。街全体が、まるで一つの大家族のように彼を記憶し、大切に守り続けているのです。
まとめ:ウィリアム・メレル・ヴォーリズに子孫はいる?家系図や妻・満喜子との生涯を徹底解説
ここまで見てきた通り、ウィリアム・メレル・ヴォーリズに直系の子孫(実子)はいません。 しかし、彼の家系図を広義に捉えるならば、そこには驚くほど豊かな繋がりが広がっています。
- 家系としての繋がり:一柳満喜子という気高き伴侶を得て、広岡浅子ら名家との縁を結んだこと。
- 事業としての継承:メンタームを守り抜いた近江兄弟社の社員たちが、彼の志を継いでいること。
- 建築としての遺産:今も人々を包み込む1,600以上の建築物が、彼の設計思想を伝えていること。
- 教育としての実り:近江兄弟社学園の卒業生たちが、世界中で「隣人愛」を実践していること。
「子孫」という言葉が、単に血の繋がりだけを指すのであれば、彼の系譜は途絶えたことになります。しかし、誰かの心に火を灯し、その火が次の誰かへ受け継がれていくことを「継承」と呼ぶのなら、ヴォーリズほど多くの子孫に恵まれた人物はいないでしょう。
彼が愛した近江八幡の景色の中に、あるいは私たちが手にするメンタームの缶の中に、ヴォーリズは今も生き続けています。
次にヴォーリズ建築を訪れる機会があれば、ぜひ建物の細部を見てみてください。そこには、子や孫に遺すような、優しく温かな眼差しが込められているはずです。


