私たちが毎日当たり前のように飲んでいる薬。その「安全基準」がどうやって作られたか、考えたことはありますか?実は、その裏には世界を揺るがした巨大な悲劇と、一人の女性の勇気、そして今はなき一社の製薬企業の名前が深く刻まれています。
その企業の名前は、リチャードソン・メレル。
かつて世界中にその名を知られた大企業が、なぜ歴史の表舞台から消えていったのか。そして、彼らが引き起こした「サリドマイド事件」が現代の医療にどのような遺産を残したのか。今回は、薬害の歴史を紐解きながら、私たちが知っておくべき真実についてお話しします。
かつての巨大企業、リチャードソン・メレルとは何者か
「リチャードソン・メレル」と聞いても、ピンとくる方は少ないかもしれません。しかし、彼らが販売していた製品の名前を聞けば、きっと驚くはずです。
その代表格が、今でも喉のケアや風邪の引き始めに使われるヴィックス ヴェポラッブなどの「ヴィックス(Vicks)」ブランドです。もともと、この会社は19世紀に創業した老舗の薬局から始まり、1930年代にリチャードソン家が所有する会社と合併して「リチャードソン・メレル」となりました。
当時は、世界中に販路を持つ超エリート製薬企業でした。しかし、1950年代から60年代にかけて、この企業は二つの大きな「薬害」に関与することになります。一つは世界的な悲劇となったサリドマイド事件、もう一つはデータの隠蔽が発覚したコレステロール薬の事件です。
これらの不祥事によって、企業としての信頼は失墜し、最終的には部門ごとに切り売りされ、ダウ・ケミカルやP&G(プロクター・アンド・ギャンブル)といった他社に吸収されていきました。現在、リチャードソン・メレルという社名は存在しませんが、その負の歴史は医学界の教訓として語り継がれています。
世界を襲った悲劇「サリドマイド事件」の舞台裏
1950年代後半、西ドイツ(当時)の製薬会社が開発した「サリドマイド」という薬が登場しました。これは「副作用のない睡眠薬」や「つわりに効く魔法の薬」として宣伝され、またたく間に世界中に広まりました。
リチャードソン・メレル社は、この薬をアメリカ国内で販売するライセンスを取得し、「ケバドン」という商品名でFDA(米食品医薬品局)に承認申請を出しました。当時の製薬業界は、新薬を出せば出すほど利益が出る「黄金時代」。リチャードソン・メレル社も、一刻も早い発売を望んでいました。
しかし、ここで歴史を変える一人の人物が登場します。FDAの新人審査官だったフランシス・ケルシー博士です。
彼女は、リチャードソン・メレル社が提出したデータに不審な点があることを見抜きました。特に、服用した患者に手足のしびれ(末梢神経炎)が出るという報告を重く見たのです。「安全性が証明されるまで、承認は出せない」。彼女のこの決断が、アメリカを最大の危機から救うことになります。
承認前に配られた「250万錠」の恐怖
リチャードソン・メレル社は、ケルシー博士の慎重な姿勢に苛立ちを募らせました。彼らはFDAに対して「嫌がらせだ」「審査が遅すぎる」と激しい圧力をかけ続けます。
さらに驚くべきことに、彼らは正式な承認が下りていないにもかかわらず、「臨床試験」という名目で全米の医師約1,200人にサリドマイドを配布しました。その数、なんと約250万錠。
医師たちは「安全な薬」だと信じ込み、つわりに悩む妊婦たちにこの薬を処方してしまいました。その結果、ドイツや日本ほどの大規模な数ではありませんが、アメリカ国内でも17人の子供たちが、四肢に欠損などのある状態で生まれてくることになったのです。
もし、ケルシー博士がリチャードソン・メレル社の圧力に屈して承認を出していたら、アメリカの被害者は数万人規模に膨れ上がっていたと言われています。
隠蔽された真実:MER/29事件の衝撃
リチャードソン・メレル社が関わった不祥事は、サリドマイドだけではありません。同時期に「MER/29(トリアパラノール)」というコレステロール低下剤をめぐっても、恐ろしい事件が起きていました。
この薬の販売時、会社は動物実験で「白内障」などの副作用が出ていることを把握していました。しかし、彼らはあろうことか、そのデータを隠蔽・改ざんして市場に送り出したのです。
発売後、多くのユーザーに重度の白内障や脱毛、皮膚の異常が発生しました。この事件は裁判となり、企業が利益のために意図的にリスクを隠したとして、巨額の懲罰的損害賠償を命じられることになります。
この「MER/29事件」は、アメリカの法律において「企業が嘘をついて薬を売ること」がいかに重罪であるかを示す、歴史的な転換点となりました。
現代の薬事法を作った「偉大なる教訓」
リチャードソン・メレル社が引き起こした混乱は、決して無駄にはなりませんでした。サリドマイド事件を受けて、1962年にアメリカで「キーフォーヴァー・ハリス改正」という画期的な法律が成立したからです。
それまで、薬の承認に必要だったのは主に「安全性」だけでした。しかし、この改正によって以下のことが義務付けられました。
- 薬に「有効性」があることを科学的に証明すること
- 副作用を含むすべての情報をFDAに報告すること
- 治験に参加する患者から「インフォームド・コンセント(説明と同意)」を得ること
私たちが今、風邪薬などを安心して買えるのは、この時に作られた厳格なルールがあるおかげなのです。リチャードソン・メレルという企業の暴走が、皮肉にも現代医療の安全網を完成させるきっかけとなったわけです。
企業倫理と私たちの向き合い方
リチャードソン・メレルの歴史を振り返ると、そこには現代にも通じる「企業倫理」の危うさが見えてきます。
利益を優先し、不都合なデータを隠す。専門家の警告を無視して圧力をかける。こうした姿勢は、形を変えて今の社会にも存在しているかもしれません。私たちができるのは、過去の事件を「昔のこと」として片付けるのではなく、情報を正しく読み解く力を養うことです。
現在、サリドマイドという薬は、適切な管理のもとで「多発性骨髄腫」などの治療薬として再評価され、多くの命を救っています。薬そのものに罪はなく、それを扱う人間の「倫理」こそが重要だということを、この歴史は教えてくれています。
リチャードソン・メレルの歴史と教訓:サリドマイド事件から学ぶ薬害の真実と現在
さて、ここまでリチャードソン・メレルという企業の足跡を辿ってきました。
彼らが残した「ヴィックス」の製品は、現在P&Gなどの手に渡り、世界中で愛され続けています。その一方で、彼らが引き起こしたサリドマイド事件やデータ隠蔽の記憶は、医療界の「戒め」として永遠に残り続けるでしょう。
リチャードソン・メレルという名は消えましたが、彼らがもたらした教訓は、私たちが手にする一錠の薬の中に、今も「安全性」という形で生き続けています。
歴史を知ることは、未来を守ること。
次に家庭用常備薬を手に取るとき、その背後にある厳格な審査と、過去の犠牲の上に成り立つ安全への祈りに、少しだけ思いを馳せてみてください。


