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メレル・ヴォーリズと一柳満喜子の生涯|建築と教育に捧げた夫婦の絆と功績を解説

メレル

滋賀県の近江八幡という美しい町を歩いたことはありますか?そこには、どこか懐かしく、それでいて洗練された洋風建築が点在しています。それらの建物を手がけ、この地に深い愛を注いだのが、アメリカ出身の建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズです。

そして、彼の傍らには常に、一人の日本人女性の姿がありました。それが妻、一柳満喜子です。

当時は国際結婚など考えられなかった時代。華族の令嬢と、情熱あふれるアメリカ人青年。二人がどのような困難を乗り越え、何を成し遂げたのか。その感動的な歩みを紐解いていきましょう。


運命に導かれた二人の出会いと広岡浅子の存在

メレル・ヴォーリズが日本にやってきたのは1905年のことでした。当初は英語教師として滋賀県立商業学校に赴任しましたが、キリスト教の布教活動を熱心に行ったことで学校を解雇されてしまいます。しかし、彼は諦めませんでした。「近江に神の国を創る」という壮大な夢を抱き、建築設計の仕事をしながら伝道活動を続ける道を選んだのです。

一方の一柳満喜子は、播磨小野藩の藩主一族という名門の家に生まれました。彼女は当時としては非常に珍しい自立した精神の持ち主で、津田英学塾で学び、さらにアメリカへ留学して幼児教育を専攻していました。

そんな二人を引き合わせたのが、NHK連続テレビ小説『あさが来た』のモデルとしても知られる実業家、広岡浅子です。浅子はヴォーリズの誠実な人柄と建築の才能を高く評価しており、また親戚筋にあたる満喜子の聡明さもよく知っていました。

「この二人なら、新しい日本の未来を切り拓けるはずだ」

浅子のそんな直感から始まった縁談。1918年、二人は運命的な出会いを果たします。

逆境を越えた愛と「一柳米来留」への改名

1919年、ヴォーリズ38歳、満喜子35歳。二人は結婚という大きな一歩を踏み出します。しかし、当時は「日本人と外国人の結婚」自体がスキャンダラスに扱われる時代です。ましてや満喜子は子爵家の令嬢。親族からの猛反対や世間からの冷ややかな視線は、想像を絶するものだったでしょう。

それでも二人の心は揺らぎませんでした。それは単なる男女の情愛を超えた、信仰と理想を共有する「同志」としての絆だったからです。

その後、時代は暗い影を落とし始めます。太平洋戦争の足音が近づく中、アメリカ人であるヴォーリズは「敵国人」として厳しい監視下に置かれることになりました。スパイ容疑をかけられ、活動を制限される日々。

そんな中、ヴォーリズは究極の決断を下します。それは日本への帰化でした。

1941年、彼は日本国籍を取得し、名前を「一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)」と改めます。「アメリカ(米)から来て、日本に留まる」という強い意志を込めたこの名前は、最愛の妻である満喜子の姓を名乗り、彼女と共にこの国で生き、死ぬという覚悟の証でした。

建築家ヴォーリズが遺した「住む人のための空間」

建築家としてのヴォーリズが手がけた作品は、日本全国で1,500件以上にのぼります。

  • 関西学院大学(兵庫)
  • 神戸女学院(兵庫)
  • 大丸心斎橋店(大阪)
  • 山の上ホテル(東京)

彼の建築には共通する哲学がありました。それは「建築の風格は、人間と同じく、その外見よりもむしろ内容にある」という言葉に集約されます。豪華絢爛な装飾よりも、そこに住む人の健康、動線、使い勝手を最優先に考えた設計。例えば、当時の日本では珍しかった備え付けの収納や、風通しを考えた窓の配置、機能的なキッチンなどは、ヴォーリズが日本に広めたといっても過言ではありません。

また、彼の事務所はスタッフが対等な立場で働く「共同体」のような場所でした。建築を通じて、人々の暮らしをより豊かに、より人間らしくすること。その理想は、今も多くのヴォーリズ建築に息づいています。

メンタームと近江兄弟社が守り抜いた信念

ヴォーリズの活動は建築だけではありません。彼は自らの伝道活動や社会事業の資金を得るために、ビジネスも展開しました。その代表的なものが、現在も多くの家庭で愛用されているメンタームでおなじみの近江兄弟社です。

もともとはアメリカのメンソレータム社から輸入販売権を得たことが始まりでした。ヴォーリズは「良い商品は必ず人々の役に立つ」と信じ、広告宣伝にも力を入れました。単なる金儲けではなく、得た利益をすべて教育や医療、伝道活動に還元するという「神の前のビジネス」を実践したのです。

戦後、商標権の問題で「メンソレータム」の名前が使えなくなった際も、彼らの精神を受け継ぐ人々によって「メンターム」として再出発し、今も近江八幡の地で製造が続けられています。その黄色いキャップの薬箱を見るたびに、ヴォーリズが目指した「自給自足の伝道」の歴史を感じることができます。

一柳満喜子が切り拓いた幼児教育の理想郷

ヴォーリズが建築や事業で活躍する一方、満喜子は自身の情熱を「教育」に注ぎました。

アメリカ留学で学んだ最新の教育理論を実践するため、彼女は近江八幡に「清友園幼稚園」を設立します。彼女の教育方針は、当時の軍国主義的な教育とは一線を画すものでした。

「子供たち一人ひとりの個性を尊重し、自由な環境で自立心を育むこと」

満喜子は、子供たちが泥だらけになって遊べるプレイグラウンドを作り、音楽や演劇を通じて感性を磨く場を提供しました。彼女が蒔いた種は、現在の学校法人近江兄弟社学園へと成長し、幼稚園から高校まで一貫したリベラルな教育の場として受け継がれています。

ヴォーリズがハード(建物)を作り、満喜子がソフト(教育・精神)を育む。この見事な役割分担こそが、近江兄弟社という組織が長く愛され続けてきた理由なのです。

近江八幡に今も息づく夫婦の物語

二人が暮らした近江八幡の邸宅は、現在「ヴォーリズ記念館」として保存されています。そこには、夫婦が実際に使っていた家具や身の回りの品々が展示されており、慎ましくも豊かな二人の生活を垣間見ることができます。

満喜子が弾いていたピアノ、ヴォーリズが図面を引いたデスク。部屋の隅々まで、お互いを思いやる温かな空気が満ちています。

1964年、ヴォーリズは83歳でその生涯を閉じました。最期を看取ったのは、もちろん満喜子でした。その5年後、彼女もまた夫を追うように85歳で旅立ちました。二人の墓所は、近江八幡の町を見下ろす静かな丘にあります。

彼らが遺したのは、美しい建物や有名な薬品だけではありません。「国境や身分の壁を超えて、愛と信念のために生きる」という、現代の私たちにも通じる力強いメッセージです。

メレル・ヴォーリズと一柳満喜子の生涯|建築と教育に捧げた夫婦の絆と功績を解説

さて、ここまでメレル・ヴォーリズと一柳満喜子の歩みを辿ってきましたが、いかがでしたでしょうか。

二人の物語を知ると、何気なく使っているリップクリームや、街で見かける古い教会が、少し違って見えてくるかもしれません。彼らは「誰かのために何ができるか」を問い続け、それを建築、ビジネス、教育という形で見事に具現化しました。

ヴォーリズの設計した窓から差し込む光、そして満喜子が守り抜いた子供たちの笑顔。それこそが、二人が本当に遺したかった「宝物」だったのでしょう。

もし機会があれば、ぜひ滋賀県近江八幡市を訪れてみてください。そこには、一組の夫婦が夢見た「理想郷」の香りが、今も風に乗って漂っています。彼らの生き方は、多様性が求められる今の時代だからこそ、より一層輝きを増しているように感じられます。

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